ぐ戒

家系図家系図のまま遡る夢を見た。文字の方はすっかり忘れてしまったけれど、末広がりになってる方から狭まってる方へ、先祖の方へと、まったく顔などは描かれずに白い下地に黒い文字と黒い線だけがある平面、多少斜面になってる先祖の方に向かって選択の余地なく進んでいく夢だった、そりゃあ先祖に向かって歩くんだから選択の余地はないよな。先祖は選べないしな。しかしまったく現実感もなければ楽しくもない実物の中にただいるみたいな夢だったので盛り上がりに欠けるし話の広げようもない。と書いていると話の広げ方に定評でもあるかのような五回を与えかねないのではっきり言っておくと、何で変換間違えするの。五回が誤解だ! エレベーターで五階ですっていう児童アナウンスが誤解ですみたいに聞こえるみたいな話あったよね、児童アナウンスって何だよオラア! ロリコンが喜ぶマンションでも建立なさったんですか、建立とはいわないか。いつまでもことえりの誤変換に付き合ってやる場合じゃないし、そもそも自動じゃなくて児童に変換のクセがついてること自体がヤバい。チチってタイピングして変換したら父じゃなくて乳が出てくる並みにヤバい。もちろん乳です。胸はって乳です。
紅茶冷めるまで数独や昔の携帯に入ってるアクションパズル系のゲームにはまってたらそうとしか考えられないぐらい紅茶が冷めてしまってこの寒い冬に何とも冷たいミルクティーを飲まざるを得ない不運を契約が切れてもうどこにも繋がらない携帯の電源を切りながら人為的なものであるという理由を剥奪し天を仰ぐぐらいには元気が有り余っているのでゲームなどにハマることになる。ハマるとかウザいとか、時々カタカナ混ぜてるのはまんが的表現でも気取ったじぶん表現でもなくて、単純にひらがながつづくとよみにくいということにたいするはいりょなのでなにか他のいい方法がないかなーと考えてて、あきれるぐらい思い浮かばないので、そばにいることにした。すいません、あきれるぐらいというフレーズで少々ジェーポップ脳が騒ぎまして文章がおかしくなりましたことをここに深く強く抱きしめて……。
Amebaなうの圧倒的にフェラな芸能人画像を間違えて見てしまったのですこぶる気分を悪くしながら出かけて、何も買わずに帰ってきた。何だろう、この日になんかあったんだけど、主にブックオフで、でもこの日に書き忘れて別の日に書いた気がするし確信もないのでそっとしておこう。夜道のジジババとか車のブレーキ遅いし急発進するし自転車は灯火しねーし徒歩だと不規則に蛇行するし、老人優しく扱うのも大事だけど老人側からの歩み寄りがないのって何なの、せめて人並みのことをしろよって感じ、特に車と自転車のルールだよ、守れないなら歩けよ、老人が率先してルールを守るのが社会的なあり方として普通じゃねーの、みたいな怒りが、夜道で急発進するジジイの車にびっくりさせられたり、無灯火でビュンビュン高速移動するチャリンコババアとすれ違ったりするたびに膨らむ。まだブックオフ店内の方が100倍安全だし、災害が起こったら真っ先にブックオフに非難して、いざとなったら本を焼いて食べる。
本と言えばこないだアマゾン経由で買ったマーケットプレイスの古本上下巻は面白いんだけど歴史的仮名遣いの壁が立ちふさがるというほどでもないけど足を取られる雪道みたいなぬるい障害になってるので読むスピードが若干遅れるのをどうにかしたい。一方現代仮名遣いであるインターネット文書は量が多いのでこれまた時間がかかる。これとご飯を繰り返すと眠くなるんだけど、床も気温も冷たいしうっかり寝たら多分死ぬしでも眠いし生き地獄というのはこういうことだと思うので眠い。
セフレこと世界ふれあい街歩きはフランス・パリ、のオペラ座界隈。界隈が界わいと混ぜ書きになってるのが気持ち悪い配慮、わいせつを思い起こさせる。オペラ座界隈って書いてあったし、劇場の周りの道路を巡ってさぞかしつまらない展開になるんだろうと、パレロワイヤルを巡ってる時は思ってたんだけど、最終的にオペラ座に辿り着くことはなかった。それどころかその後ほとんどの時間をパサージュの内部徘徊に費やすという、とても素敵な展開。パサージュという言葉は意味も分からず読んでたベンヤミンのパサージュ論に出てきたし理解できなかったのは思想であってパサージュの構造は理解できたしほかの機会にもその外観内観をチラッとなら見たことあるけど、こんなに時間を割いてゆっくり見られたのは初めてだってぐらい内部を巡りまくっていた。日本でいうアーケード街の雨に対する無敵感を100倍ぐらい放出してて、それはおそらく風もほとんど防ぐことと、車がまったくないことに由来してるんだろうけど、その上で外と違うのは見るものすべてにデザインが加わっているということ。外でいえば舗装道路なんかも人工物ではあるけどデザインされてるとはいえないし、空はもちろん自然で、街中にあっては上下は見るべきものに当たらず、横方向にしか視点が動かないのが、パサージュの中といったら上も下も明らかにデザインされた人工物であって、ひとの何らかの考えや趣向の中を常に通るという、他人の臓器を通ってるような感覚、外と内の感覚をもう一個作るような、カギカッコの中に二重カッコを突っ込むような、人体として引用されているような、そしてまた別人であることを強要されているような、つまりお前も人工されろと命令されているようで、かつ開放的な雰囲気は他の施設ではそうと表現できないぐらい異様。日本の同じような商店街アーケードと何が違うんだろうと思ったけど、パサージュは店があくまで通路に対する部屋であることと、統一感があるかないかっていう問題だ、と。一部例外はあったけど基本的にパサージュは一本の管、クダ、管的構造。対する日本のアーケードは商店街に屋根を付けただけの保護という意味合いが強く出てて、盾を持った兵士のようであり、攻めの姿勢が強く出ていて、兵士は兵士のまま商店街は商店街のまま見えていて、それ故統一感に乏しく、アーケードに入ったという印象が弱い。パサージュに話を戻して、入った感じが強いのがパサージュで一番楽しい感覚。なので、そこらの店主が言ってた村感覚というのは逆に、パサージュを横倒しのデパートに見立てるような言い回しであり、面白くないなーという感想を持った。でもその店主の家というのがパサージュの上にあって、そこにはマンション風味の家ではなくて本当にパサージュの屋根のきわに平屋を乗っけたみたいな家があり、無敵感覚の上に建つ神様感覚の家っぽくて、猫も徘徊しており、まるで地上のような顔をしていたのがすごい面白かった。いやあ本当にオペラ座に行かなくてよかった。それにしても神様スペースに住んでた猫はパサージュの屋根のつなぎ目の内側みたいな場所を平然と歩いていたので、足滑らせたら死ぬっぽい。